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2017年03月24日

お客さんの為

切手やはがきなど、発行の権限は日本では日本郵政が持っています。この郵便を見ていて、不思議に思うことがたくさんありましたので、述べてみたいと思います。

 なぜ、ポストはタイムリーに便利な所におかないのでしょうか?ポストはコンビニなどが増えるとそこに設置されることはあっても、それ以外ではほとんど、新しく設置されているのを見たことがありません。しかも、時代の流れが変わっても、昔から同じ場所においてあります。近くにポストがいくつもあるところもありますが、ないところは全然ありません。しかも、新興住宅ができれば、その近辺にできても良さそうですが、それも、まれです。民間なら、クロネコヤマトのように、便利な所に次々、取り置き所等が設置されることを考えると益々不思議で魑魅魍魎の世界だと思わずにいられません。

 先日、郵便料金の改定がありました。競争相手がない業界ですので、赤字になりそうになればいつでも値上げができます。葉書は52円が62円に6月1日から値上げです。民間では考えれない世界だと思います。こんな簡単に値上げができてしまうのですから、益々、魑魅魍魎の世界だと言わざるをえません。これでは益々日本郵政という会社の自助努力に水を差してしまいかねません。私はそれを憂えているのです。所得低下が言われている庶民感覚から大いにずれているとしかおもえません。


 先日ある郵便局に行ったときの事です。ポストがおいてありましたので、そのポストの入り口は何センチ迄の物が入りますか?とお尋ねしたのですが、返ってきた言葉が「それは、他の部署でつけたので分かりません。」でした。あきれてものが、いえませんでした。自分の局に設置されたポストぐらいどれくらいの荷物が入るか関心を持つなり事前に調べておくのが普通だと思いますが、全然それすら気がつかないのです。お客さんの為に今分からないなら、定規を持って調べて回答するのがサービスだと思うのですが、それすら、気がつかないで、「それは他の部署の物がつけたので分かりません。」という回答でした。「調べて後日ご回答致します。」と、言って欲しかった。

 郵政民営化といわれて久しい訳ですが、民活のエネルギーはどこへ?という感じで郵政も組織が変わったとはいえ、相変わらずです。

 その点、ソフトバンクやAUの競争会社のあるドコモの通信業界は様変わりしています。やはり、民活は競争の原理が働かないと変わらないのだと思います。JALも同じような運命をたどりましたね。最後は京セラの稲森和夫さんが再建を果たしました。JALは復活しました。

  


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2016年06月17日

流す必要なも


もし誰かから「一週間も風呂に入っていない」と聞いたら、その人のことを不潔だと思うだろう。
しかし長い歴史のなかには、風呂を好む時代もあれば忌み嫌う時代もあったのだ。

古代ギリシャ、古代ローマ時代においては、風呂があるのは当たり前だった。ギリシャの場合は汗を流す必要なものとして風呂に浸かったが、ローマでは楽しむために共同浴場があった。

『テルマエ・ロマエ』という漫画が流行ったことから、ローマ時代の風呂に対するこだわりを知っている人は多いかもしれない。
ジムがあり、プールがあり、マッサージ室がある。ほとんどいまの温泉施設と変わらない。
ローマ人は清潔であることを美徳に思っていたのだ。

その一方キリスト信者は洗礼以外で体を洗うことを嫌った。

四世紀と五世紀の東方では、汚さはキリスト教徒の聖らかさを示す顕著なしるしになった。汚れたままでいるという独特の肉体の苦行は、〈アロウシア〉つまり「洗っていない状態」という語で知られ、隠者や修道僧、聖人たちのあいだで広く行われた。(p58)

キリスト信者が体の清潔を嫌ったことには、これがすべてではないが「誘惑」という理由があったらしい。体の快楽を避けた。

ローマが衰退し滅びることによって、ヨーロッパの共同浴場の施設も消え去った。復活したのは中世になってからである。十字軍の東方遠征によってトルコの風呂「ハマーム」が知らされた。

神聖ローマ帝国では「風呂手当」というものもあったらしい。人々の交流の場でもあった。

そんな風呂文化が再びなくなるのは十四世紀にペストが流行してからである。パリ大学医学部の教授たちは、湯浴みによって全身の毛穴が開きそこからペストが侵入してしまう、と指摘した。
実際は、不潔になればなるほどノミにたかられやすくなって、ネズミがペストを運んでしまうのだが、その指摘によって共同浴場は閉鎖された。同時に、風呂に対する恐怖も広まってしまったのだ。

この時代になると、下着を履き替えるだけで体が清潔になると信じられていたのだから驚きだ。ある文士は下着を一二枚持っていた。

しばらくしてジョン・ロックや、フロイヤーという医師が「冷水浴」を勧める。
一八三〇年になると、皮膚呼吸という新しい考えが出てきて、体をきれいにすることが生命維持に必要だというふうに認識が変わる。
一八四二年には共同浴場ができるが、人々のなかには風呂に入ると伝染病にかかると信じている人も多かった。

いまのように清潔であることが多くの人に美徳とされたのは、石鹸やリステリンを売るための広告が出てきてからである。口臭や、体臭が、人を不快にしていることを訴えた。自分ではわからないこともあって衛生ブームは広まった。

そしていま現在、清潔については古代ローマと変わらないようになっている。このように清潔に関しては、時代によって移ろいを見せている。
著者は最後にこう結んでいる。

清潔の未来は謎めいていて、いつもそうだったように、資源と同じくらい心情によって変わる。たとえば、深刻な水不足以上に私たちの入浴習慣をたちまちすっかり変えてしまうものはないだろう。
ひとつだけ確かなことがある。一世紀後の人々が、驚かないまでも面白がって、二一世紀初頭にふつうに清潔だと思われていたことを振り返るだろう、ということだ。(p282)

もしかしたら風呂に入ることが不潔になる時代が再びやってくるかもしれない。この本には日本のことについてはほとんど触れていなかったから、日本での清潔事情も気になる。  


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2015年12月10日

それ相応のごち


年末のお歳暮の時期になると、新潟の義父母のところから横流しされたリンゴが一箱やってきます
新潟の両親はかなり果物を食べる人なのですが、それでも送られてくるリンゴが多すぎるらしい・・・封も切らず私達の許へ、かなり大きな高級リンゴが横流しされるのです
そしてそのリンゴたちですが、流石に私達も生で全部は食べきれない・・・そこそこ大きなリンゴなので二人で一日半分が限度なのですなので取り敢えず1/3ほどコンポートに、そしてそれでも食べきれなさそうだったら更にコンポート第二弾を作るのが冬の恒例行事となっております因みにコンポートにしたリンゴはすべて私のものです

まぁ、コンポートと言ってもきっちりしたものではありません。皮を向いたリンゴ5個分をバーミキュラに詰め込み、グラニュー糖小さじ1とワイン100cc(カップ半分)を足して極弱火で煮こむだけwww保存は冷蔵庫ですればいいやと思っているのでお砂糖はあまり入れません。それでもリンゴの甘さがあるのでそこそこ甘いんですよね~。お好みによりますが、あまり甘いのが得意じゃなければ砂糖なしでも大丈夫かも。これを作っておけばアイスやパンのトッピングにも使えますし、そのままおやつでもOK.。あとワインで煮込んでいるのでお酒との相性も良いんですよお砂糖少なめに作りますのでワインのアテにも重宝しております
ただこんな贅沢ができるのも横流し品があるからこそ。普段1個買おうか2個買おうか悩みながらリンゴを買っている人間の、一年に一度の贅沢です

次回まかない処は12/17、実は当日旦那の誕生日に当たりますので、それ相応のごちそう、というかワインくらいは用意しようかと・・・たぶんこちらのネタもそれ絡みになりそうです  


Posted by sieien at 11:55Comments(0)memory

2015年10月26日

辞めたいと思


最近、息をするのが苦しいときがある。心臓が弱っているようだ。仕方ない。もう満で88歳だもの。おじいさんが亡くなってから15年も経つ。15年間、一人で暮らしてきた。数年前までお産も取り上げていたし、新生児訪問も市から頼まれれば行っていた。赤ちゃんは本当にかわいい非那甾胺。見るだけ触るだけでなんとも幸せな気持ちになれる。18歳のときから産婆をしているけれど、赤ちゃんがこの世に出てくる瞬間は毎回毎回新鮮で何とも言えない気持ちになる。この仕事を選んで後悔したことは一度もないし、辞めたいと思ったことも一度もない。

戦後、産婆は助産師と呼ばれるようになって、お産の形もずいぶんいろいろと変わったけれど、命の誕生の不思議さと尊さはいつの時代も変わらない。
もうすぐ、樹名に子どもが生まれる HKUE 呃人。樹名は二人いる孫のうちの一人だ。お兄ちゃんの業識もかわいらしかったけど、やはり女の子は昔から格別にかわいい。夏休みや冬休みは私の仕事が休みだと必ずお泊まりで遊びにきてくれていた。

秋には結婚式にも参列した。久しぶりの着物は疲れたけれど、樹名の花嫁姿が見られて本当に良かった。あれ以来、樹名には会えていない。樹名の結婚式が終わってから、ずいぶん体調が悪くなってしまって、入退院を繰り返すことになってしまった東芝 冷氣機。病院にはどんなウィルスがあるかわからないから、妊娠中の樹名は来られない。

娘の美江にも迷惑をかけてしまった。慧淳さんがあんな病気になってしまって。あの子一人で病院とお寺の守と毎日かけずり回っているようだ。これ以上娘に迷惑はかけられない。電話で話すときも極力元気そうな声を出している。車で30分の距離だが、今の娘にとって私のところに来る余力はないだろう。

今は樹名の赤ちゃんに会えることが一番の楽しみだ。もう妊娠後期に入ったという。樹名は産婦人科の健診の度に私に電話をかけてきて、赤ちゃんがこんな風に写真に写っただの、動いているところが見えただの話してくれる。樹名も赤ちゃんも元気らしい。そう言えば、女の子だと言っていた。樹名に似たかわいい女の子だろう。

お産は私が二十数年前に婦長をしていた産婦人科で産むことになった。大先生はまだ現役で、息子さんが院長先生をされているとか。娘さんもドクターになられた。奥様は先生が独立されたとき、入院患者さんのお食事を作られて支えておられた。あのとき、奥様の足下でオモチャの車を動かしていた男の子が院長先生になられたらしい。時の流れるのはなんとはやいことか。  


Posted by sieien at 12:48Comments(0)memory

2015年08月26日

桜子が滋にま


「先輩!また、いいバイトしません?」
「いいバイトっ?」
「私たちに付き合って、男性とお茶飲んでご飯食べるだけです」

その私たちというのは天妍專業紋繡中心、一緒にいる桜子、滋、そして優紀の3人で、カフェでお茶をして過ごしているところだった。

「っていうか、それ合コンでしょ?」
「ふふっ、バレました?」

いいバイトという言葉に一瞬食い付きかけたつくしだったが、家のことで必死なこともあって彼氏など欲しいとも思わないし、以前桜子にどうしてもと言われ参加した時も鋁門窗、男の人にしつこくされて辟易した思い出しかない。

「先輩みたいな、見た目簡単に落ちそうなのに、男に靡く気配すらない人って、どういうわけかモテるんですよね…」
「失礼な…。見た目簡単に落ちそうって…」
「だって、セレブ相手なら100発100中ですよ!?偶然だって言うんですか」
「確かに…こないだのボンボン、つくしの連絡先を教えろってしつこかったもんね〜」
「あとは、道明寺さん、花沢さん…」

滋が言うボンボンに、合コンの間ずっと絡まれて大変だったのだ。
早々につくしは帰ったが Veda Salon、その後も桜子たちにつくしの連絡先を教えろと迫ったらしい。

「そこで、なんで類と道明寺の名前が出てくるのよ…」

「「「……2人とも可哀想に…はぁぁぁ」」」

つくしがよく分からないと言うように、3人の顔を見ると、優紀までもが額に手を当ててガックリと肩を落としていた。

「……?」

「あ、そろそろ時間だから来るはずですよ?先輩、バイトよろしくお願いしますね!」
「えっ!?なに?まさか、今から合コン?」

急いで帰ろうとするつくしの両腕を滋と桜子に固められ、動くことすら敵わない。

それから、10分もしないうちに男性4人が店に到着し、つくしたちの前に座った。
いつもF4を見慣れているつくしとしては、彼らがカッコいいのかそうでないのかはよく分からないが、桜子が滋にまぁまぁですね、と言っているところを見ると相当なのだろうと思う。
優紀に至っては、少し頬を染めている。

「みんな、すげー可愛いね」
「うわっ、ほんとだ!レベル高い!」

「「「こんにちは〜」」」

明らかな外面の笑顔で挨拶をする3人に、つくしはガックリと肩を落とした。


  


Posted by sieien at 12:22Comments(0)lperoop

2015年06月16日

不眠状態を抱


なんだか、疲れた。

昨夜は2時まで入眠できず。

今朝は5時牛記找換店、6時と、早朝から小刻みに覚醒。眠れた感じがしない。

不安が日増しに膨れあがってきて、鬱に落ち込んだままの気分が続いている。

父の入院も、長引きそうだ。電話で聞く限りでは、しっかりした声だけど、点滴のチューブが2本入っているらしい。1本は栄養補給だろうが、もう1本は抗生物質か天幕帳篷炎症を抑える必要があるのか。

見舞いに行くと、本人も体力を消耗するから、不要不急の見舞いは行かないようにしているが、思ったより長引きそうで、顔を見に行った方が良かったか。

不眠の疲労が溜まっている状態で外を出歩くのは、リスクはあるのだが。梅雨時で体の調整がうまくできないときは、パニック発作を起こすことが多かった。

せめて昼寝しようと思ったが、全く眠れず不眠状態を抱えたまま、日が暮れた。

気力が戻らなくて、無為に時間が過ぎる。この先、乗り越えなければならないヤマが迫っているのだけど、具体的なイメージが湧かない。

とにかく、今、充分眠りたい。眠れさえすれば、気力だけ糖尿病性黃斑水腫でも少し戻る。不安は別物だから、鬱は簡単にどうにかできるものでもないけど。。。。
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Posted by sieien at 17:19Comments(0)lperoop

2015年05月18日

た孤児たちは、

 
「我々は恩を忘れない」
 やがて健康を取り戻した孤児たちは、祖国ポーランドに送り届けられることにな
りました。
 第一陣の50名ほどの孤児が横浜港から発つときのことです。 孤児たちは見
送りの人々にしがみついて離れたくないと泣き叫んだといいます。 世話をしてく
れた日本人は幼子たちにとって父や母のような存在になっていたからです。
 
 見送る多くの日本人は子どもたちに向かって、「君たちは元気で勉強に励み、
大きくなったら偉大な祖国再建のために役立つような人になるんだよ」 と切々
と励ましています。

 これに対して、埠頭に並んだ孤児たちは感謝をこめて国歌 「君が代」 を歌い
出したそうです。 滞在中覚えたのでしょう。 幼い彼らが涙して歌う 「君が代」
の調べが埠頭に流れました。
 大正11年、孤児たちの帰国を受け、ヤクブケビッチ副会長が感謝の手紙を送
ってきました。

 「わが不運なるポーランドの児童にかくも深く同情を寄せ、心より憐憫の情を
表わしてくれた以上、我々ポーランド人胆に銘じてその恩を忘れることはない。
……ポーランド国民もまた高尚な国民であるが故に、我々はいつまでも恩を忘
れない国民であることを日本人に告げたい。……
 ここに、ポーランド国民は日本に対し最も深い尊敬、最も深い感恩、最も温か
き友情、愛情をもっていることをお伝えしたい」

 一方、無事帰国した孤児たちは、たくましく成長しました。彼らの中には医者
教師、福祉事業家、法律家、技術職人など、公のために尽くす職業を志した者
ガ多かったと伝えられています。
 その一人、イエジ・ストシャフスキは、後に孤児院の院長に就任して、社会
福祉の改善に尽くすとともに日本との友好を深める「極東青年会」 を結成し、
会長として活躍しています。
 
{日本の被災時に恩を返す}
 ところうで、ポランドと、我が国との関係はこれで終わったわけではありません。
実は平成7年1月に阪神大震災が発生した時、ポーランドはいち早く救援活動に
入りました。
 しかも同年8月には、痛手を負った日本の被災孤児たちを1カ月近く招待しワル
シャワやその他各地に歓迎し、心からの激励をしてくれたのです。
 被災時の中には肉親を亡くした児童もいまいたが、慈愛に満ちた接待を受けて
います。 そして被災児とのお別れのパーティが開かれた時、かってのポーランド
孤児の方々が地方から駆けつけてこられたのです。
 すでに80歳を越えるこの方々は、日本の被災児にバラの花を一輪ずつ手渡し
心から激励してくれたそうです。

 その様子については、当時ポーランド大使を務め、この場面には立ち会われた
兵藤長雄氏の著書 「善意の架け橋」 に詳しく紹介されています。  


Posted by sieien at 10:18Comments(0)

2015年05月15日

見た目は ただの


帝の職場は 極光殿(きょっこうでん)。
 内裏(だいり)を含む 大内裏の ほぼ中央に位置する。

 テキトーにしか見えない勤務態度で、 朝も早よから 仕事をする帝の元にやってきたのは、
 侍従を務める 中納言鹿杖(かぜつえ)である。
 帝のお気に入りで能量水 詐騙、 参議の時に目を付けられて、 侍従に抜擢された。
 三十歳にもならぬのに中納言とは、 異例の出世である。
 帝の寵愛を一身に受けているからには、 美青年かと思えば然(さ)にあらず。
 見た目は ただのぼんやりさんにしか見えない。
 しかしながら、 えこひいきと言われないだけの 確かな実力があった。

「鹿杖、 海辺の領地は順調か」
「有能な代官を送り、 なんとか基礎は押さえましたが、 効果が出るまでには 時がかかりそうです。
 しばらくは 海辺の民は苦労鑽石能量水することでしょう」
「まったく いい迷惑だ。 何故あんなことになったのやら」
 帝は、 珍しく渋面を作った。

 近来稀に見る大騒動で、 せっかく穏やかに治めてきたというのに、
 一部とはいえ 国土が荒れたのは、 とっても残念に思っていた。
「きっかけは 叶わぬ恋の駆け落ち騒動ですが、
 何故 門多義家と喜谷部家の仲が悪かったのかは、 どうしても分かりません。
 もしかして、 とてつもなく些細な原因だったのでは、 という気がしないでもないです」

 長い間の確執というものは清邁自由行、 第三者が後から聞けば 馬鹿馬鹿しく思う事も珍しくない。
「ふうん。 他には無いのか。 そういう 危ない悶着を起こしそうなところは」
 もしあれば、 早いうちに 芽を摘む算段を考えなくてはならない。
 当事者が滅ぶのは自業自得だが、 周りが迷惑する。

「阿嵯緒(あさお)家と毅螺(きら)家は、
 三代前の御世(みよ)に領地替えをしてからは 平穏に過ぎています。 残るは一箇所のみ」
「何処だ。 そこも領地替えしちゃおう」
「できません」
「何故だ。 余が許す」
「陛下でも無理」

「余は、 一応帝なんだけど」
「一応じゃ無理です。
 ここに都を開いた 佐師布津(さじふつ)帝のご遺言もございます。
 奇御岳(くしみたけ)家と 鬼道門(きどうもん)家を 領地替えにはできません」

 聞いた帝は、 素っ頓狂な声をあげた。
「あっ、 忘れてた。 あの両家か。
 仲が悪いのが当たり前になっていたからなあ」
「私もです。
 ですが、 忘れていない民が 思いのほかたくさんいたようです。
 門多義家と喜谷部家の騒ぎで、 不安が吹き出してきました」

  


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2015年05月08日

目は無くなった。銃声で




どういうつもりだ?」

「へっ、Eのくせに気に入らねえんだよ。お胸部下垂まけに今回のはお前じゃなくて武器の力じゃねえか。だったら俺が有意義に使ってやろうってな!」

 それが合図だったのか、月が陰り、嫌な予感がしたのでその場から飛び退く。

「カークさんよ。せっかく注意を引き付けたのに避けられてるじゃねえか」

「ここで仕留めれば関係ない」

「おいおい、ここで盗賊ギルドのお出ましか?」

 盗賊ギルドには3つの顔がある。1つ目は偵察やトレジャーハンティングなどの、どこかのパーティで斥候(スカウト)になること。2つ目は街中でスリなどの非合法な手段で金品を収集し、元締めにミジカメ料を払うこと。3つ目は暗殺業務だ。斥候をしているゴードンから聞保濕針 いた。あいつはどう考えても3番目だろう。

 目より下をマスクで隠し、つや消しの黒革の鎧を着て大振りのナイフを二刀流にしている。

「言っておくがここで暴れたら間違いなくばれるだろうな。ヘンリー、お前の顔は覚えている。カークだったか?ここで仕留め切れなくてもそのマスクの下は拝ませてもらうぞ」

 仕留めないつもりは全く無いけどな。

「開門」

 じりじりとリボルバーで牽制しながら、サブマシンガンを取台北機票り出す。カークは初見の武器のせいか、構わず突っ込んできた。

「おい、馬鹿!」

 「タァーン!」と銃声。運か偶然か、寸でで避けたカークは二の足を踏んだ。

「これでお前らの勝ち目は無くなった。銃声で誰かが来る可能性もあるかもしれないな」

 戦士タイプのヘンリーにリボルバーを、牽制と数撃ちゃ当たるの理屈でサブマシンガンをカークに向けた。

「ここでイモ引いてとんずらしても手配されるだけだ、やるぞ!」

「ああ」

 ヘンリーはまっすぐ、カークは狭い路地裏をジグザグに動きながら狙いをつけさせないように走ってくる。
  


Posted by sieien at 14:14Comments(0)

2015年05月04日

 と言われるよりも


隣のお婆さんは、口八丁手八丁のスーパーお婆さんだった。(去年夏没)

お婆さんには、不可能と言う文字は無かった。

自分の着る服は、みんな手作り、縫ったり、編んだり。

二ケタぐらいの掛け算なんかも暗算で出来るし、

空の雲や、工場の煙で、天気も予知できた。

姿勢も良く、85才まで、4キロ位の距離なら、自転車で楽々往復。

走る車のナンバーを、すばやく読み取り、暗算で、足したり、掛けたり、が得意技。

そんなお婆さんのことを、近所のお婆さんは「変わった人やで」と言っていた。

私はお婆さんに、よく説教されていたので、

「アンタも家にはお姑さんお加州健身中心ってないのに、隣にお姑さんがおってやから大変やな」

「よう辛抱してえらいな」と近所のお婆さんからは同情されていた。

けど、ホンマは…私は、お婆さんが好きやってん、尊敬してたんや。

私は 「ええお婆さんやな」 と言われるよりも、

「変わったお婆さんやけど、付き合ったら面白いで」

と言われるような、変なお婆さんになるつもり。
  


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