2014年06月11日
偽善と詐術が

白眼視するという表現がある。
無視したり、冷たい視線を投げかけることを言う。
このことば魚缸、
何とも「言い得て妙」という気がする。
この白眼視という表現は、
中国の魏王朝の末期の
いわゆる竹林の七賢の一人である阮 籍(げんせき) の
態度から生まれたもの中港運輸公司。
彼は、偽善と詐術が横行する世間を嫌い、
日々、大酒を飲み清談 (世の矛盾の語りあい) を行ったとされる。
そして、いかにも俗人というべき人物が来ると白眼で対し、
お気に入りの人物には青眼で対したとある。
このご仁、なかなか徹底していたようだ。
白眼視といえば、
世の中で、白眼視されるべき存在としてバンパイアがいる。
これは、架空の世界のものと思っていたが牛證、
中世のブルガリアでは、現実にバンパイア狩りがあったようだ。
そのころ、バンパイアとみなした人物に対しては胸に鉄のくいを打ち込んで
処刑されたという。
2014年06月11日
な思い出しか

夏休みの終わりに九州に帰るとき、祖母は関西線の駅まで送ってくれた。駅は長い下り坂を下りきったところにある。だから帰りはまた、祖母は長い坂道を上って帰らなければならなかったのだ。そんなことを、今頃になって憂慮しているHKUE 呃人。
改札口で別れるとき祖母は慌てるようにして、ぼくのシャツの胸ポケットに何かを押し込んだ。おカネのようだったが、ぼくはそのことをすっかり忘れてしまい、夜行列車の中で気がついたときには、ポケットは空っぽになっていた。どこかで失くしてしまったようだった。
それが、大阪の祖母との最後だったHKUE 呃人。
ぼくが東京であくせくしている間に、祖母は死んだ。
朝顔の花から、久しぶりに祖母のことを思い出した。取るに足りないような思い出しかないが、些細なことなのでそのうち忘れてしまうかもしれない。そう思うと、すっかり忘れてしまう前に書き記しておきたくなった。
日ごとに小さくなっていく朝顔の花に、遠ざかっていく記憶の愛おしさのようなものを覚えたのかもしれない。
小さな朝顔の花も、よく見ると愛らしい。花の終わりは始まりでもあるのかもしれない。老いていくというよりも幼くなった感じもするHKUE 呃人。
あしたもまた、小さな花が生まれているだろうか。